花見酒

本日は、経済についてお話しさせてください

「花見酒の経済」

桜の季節に、長屋に住む兄貴分の熊さんが、弟分の辰さんに持ちかけた。

 「安い酒を仕入れて、花見客に高く売りつけ、ひともうけをしよう」。

 1本1000円で仕入れた一升瓶を10本、背中に担ぎ、花見客で賑わう公園に出かけた。1合を1000円で売れば、1升で1万円。全部で10万円の売上げになる。仕入れの費用の1万円が、10倍になる計算だ。

 ところが、長屋から花見の場までは遠い。途中で熊さんが言った。

 「おい、1000円を払うから、おまえの背負った一升瓶から一杯だけ飲ませろ」。

 その1000円を受け取った辰さん。次は自分が、「おいらも飲みたくなった。1000円で一杯、売ってくれ」。

 これを繰り返しているうちに、二人ともへべれけに。花見の場に着くころには、背負った酒はすっからかんになり、手元には1000円だけが残った。

バブルは花見酒と同じ

 さて、この落語を、最初に日本経済に当てはめて論じたのが、笠信太郎氏だった。高度成長期まっただなかの1962年、朝日新聞の論説主幹だった笠は、著書の「花見酒の経済」(朝日新聞社刊)で、日本の急激な反映ぶりを「花見酒のような危うさがある」と警告した。

 以後、この「花見酒の経済」という考え方は、景気が急上昇へと向かう局面になると、繰り返し語られる。

 それは、こういうことだ。例えば地価の上昇。土地の値段が上昇をしはじめると、その土地を担保にして銀行が融資をする。融資をもとに土地を買えばさらに地価が上がり、銀行はさらに融資をするから、また土地が買える…。バブルの発生だ。

 笠信太郎は、このような現象と花見酒との類似性を指摘した。お金が行ったり来たりをするうちに地価がどんどん上昇していくのは、花見酒のように、見せかけの幻ではないかと訴えたのだ。

 熊さんも辰さんも、もし酒をきちんと花見客に売っていれば、手元に10万円の売り上げが残ったはずだ。さらに、それを元手にまた酒を仕入れてまた商売をすれば、もっと大きな利益だって手にできたかもしれない。
 ところが、自分たちだけで売った買ったを繰り返しているうちに、確かに売り上げは計上されたのに、手元には1000円しか残らなかった。

 バブルとはこのように、実体をともなわない砂上の楼閣のような金の往来ではないのか。ここに、「花見酒」の警句がある。

経済は実質的に成長している

 しかし、そこには一つの落とし穴があることにも、注意が必要だろう。この話を聞くと、多くの人はしばしば、「熊さんと辰さんの売買は、利益を生まなかった」と考えがちだが、それは間違いだ。

 花見酒を、GDP国内総生産)に当てはめて考えてみよう。すると、どうなるだろうか。つまり、花見客に酒を売った場合と、自分たちで飲んだのとでは、GDPはどう違うだろうか。実は、同じなのだ。つまり、GDPはどちらも10万円である。

 GDPとは最終消費物の販売価格の合計である。生み出された付加価値の合計といってもいい。この最終消費物の総額は、熊さんと辰さんが飲もうと、花見客が飲もうと、どちらも同じだ。つまり10万円である。

 ところが、落語の花見酒では、この10万円がまるで消えたかのように見える。なぜだろうか。

 いや、消えてはいないのである。10万円は、「酒を飲んでいい気分になった」という「効用」に費やされた。そして、この「効用」を手に入れる消費者が、熊さんと辰さんなのか、ほかの花見客なのかという違いはあるが、GDPとしての差はない。

 ここに「花見酒の経済」がもつ、ちょっと深い問題がある。つまり、バブルも同じなのだ。土地や株の値段が上昇する過程で、経済が実質的に成長していないかというと、そんなことはない。一部は賃金にまわったり、一部は設備投資にまわったりして、成長は起きている。

 花見酒では、熊さんも辰さんも、「酒をついで手渡す」というサービスを提供した。そして、そこで得た利益を消費し、「酒を買う」というかたちで、財を獲得している。これが経済学の考え方だ。

 

 

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